ブックタイトル東北大学 アニュアルレビュー2015

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東北大学 アニュアルレビュー2015

04研究の動き│RESEARCHムスリムたちの近代との出会い黒田卓どの娯楽、はたまたオックスフォードでは巨大な太陽系の天体模型に驚嘆し、つぶさに観察をします。自らのイスラームの慣習に照らして、イギリス女性のあり方は彼の好奇心をいたく刺激したようです。腕を組んで公園を闊歩するアベックを見て、ここは「天国」なのかと嘆息をもらしつつも、売春や性的放縦による私生児の多さにも批判的な目を向けています。こうした宗教や文化の側面では、愛憎半ばするのが彼の記述の特徴です。イスラームは変化する▼イスラームという言葉を聞いて何をまず思い浮かべられるでしょうか。30年近く前に大学の教養教育でイスラームのイロハを教え始めたころは、どちらかというとエキゾチックな遠い異国のなじみの薄い宗教や文化、または二度のオイルショックを経て日本がエネルギー資源を死活的に依存している地域というような返答をする学生が大半でした。しかし1990年代、とくに21世紀に入ってからは、この縁遠い存在なるイメージは大きく転換します。2001年9月11日のニューヨークでの同時多発テロが一つの転機でした。アフガニスタン戦争、イラク戦争、そして近年のイスラームを標榜する過激派集団の勢力伸張と残忍なテロ行為―こうした相次ぐ戦争と暴力の応酬がイスラームそのものをテロや暴力、反西欧、反近代と短絡に結びつける風潮を強め、学生の反応にもこうした傾向が色濃く投影されるようになりました。冷静に考えてみますと、このような紋切り型の認識は現実に反していることは容易に気づきます。イスラーム教徒(アラビア語ではムスリムといいます)はいまや16億人と推定され、地球人口の4分の1近くを占めています。これらムスリムたちのおそらく99%以上は、ラクナウの中心にある「イマームバーラー」と呼ばれるシーア派特有の宗教施設。写真は壮大な正面門。アブー・ターレブ・ハーンが活躍した18世紀後半に創建。テロや暴力とは無縁のふつうの平和な市民です。突出して極端な集団の過激な行為のみが過剰に日々報道され、また過激派集団の側もサイバー空間を巧みに自己宣伝のために利用します。それらへの素朴なリアクションとして、ムスリムたちを十把一からげに、テロや暴力に走り、近代的な価値に逆行する、異質の敵対的集団と見立てる認識を生み出します。これはムスリムの側にも言えることです。つまり、西洋や日本を一まとめにして、物質主義の不道徳な異教徒、抑圧と不正の悪者と単色に塗りつぶす態度です。こうして相手を相互に理解不能な諸特性にのみ閉じ込めて他者を貶める姿勢からは、反感と敵意の悪循環しか期待できそうにありません。イスラームにはコアに不変とも思える理念がたしかにあります。しかしイスラームの宗教も思想も文化も、現実に創り出しているのはムスリムたちの人間的な営みです。したがって、イスラームの理念性を念頭に置きつつも、ムスリムたちの歴史は大いに可変的で、事実時代時代で否定しがたい変容をこうむってきたことに注目すべきだと思います。最近私はこうした思いから、そもそもムスリムたちが近代という時代と初期段階でどのように向き合ったのか、その現場に分け入りたいという関心を抱くようになっています。ここではその研究の一端をご紹介してみましょう。左ページの「イマームバーラー」構内に建てられた、この宗教施設を建立したラクナウの地方君主専用の礼拝所(モスク)。中央に見えるのはミナレットと通称される尖塔。ムスリム知識人たちが西洋と出会う▼ヨーロッパ国際関係の渦中に身を置いたオスマン帝国を別とすれば、西洋諸国、なかでもイギリスと近代初期の段階から浅からぬ関係を取り結んだのは、イスラーム系のムガル朝治下のインドでした。周知のようにイギリスとインドとの関係は対等なものではなく、18世紀半ば以降はインド北東部ベンガル州に地歩を築いたイギリスが宗主国、インドがその支配を受ける植民地としてきわめて不平等な立場にありました。不均等な力関係を反映して、人の流れもたいへん非対称なものでした。東インド会社職員・軍人、企業家、学者、宣教師など、数多のイギリス人が時の経過とともに奔流のごとく「インドへの道」をたどったのに対し、この道を遡行してイギリスに渡ったインドの人びとの流れはか細いもので、ほとんどがイギリス人の連れ帰った妻妾、男女の従僕、西洋船会社に集団雇用された船員たちであり、彼ら彼女らは自らの異国での異文化体験を記録として著すことはありませんでした。インドを題材にした専門書・小説・戯曲がイギリスでおびただしく流布していたのに、18世紀に限っていえば、イギリスに渡航し旅行記のような文字記録を残したインド在住者は、私の調べた範囲では6名しかいませんでした。英語で著述した2人を除くと、他はすべて祖先がイランからインドに移住した家系出身のムスリム文人官僚で、その記録は当時のムガル朝の公用語ペルシア語で記されていました。彼らのうちで最も早い1766年に、ムガル皇帝の親書を携えて東インド会社軍人といっしょに渡英したのが、ベンガル州生まれのミールザー・エエテサーモッディーンなるムスリム書記官でした。帰国後しばらくして記憶をたどりつつ、彼が著した旅行記『ヨーロッパの驚愕の書』は、小品ながらもみずみずしい感性が端々に表れてなかなか面白いテクストです。ロンドンでは町を飾る街灯や舗装道路、エジプトのミイラさえすでに呼び物になっていた大英博物館の陳列品、そして流行りだしていたオペラ、演劇、サーカス、曲乗りな西洋社会の仕組みに視線を向ける▼それから30年後の1799年に同様に東インド会社軍人に同道してイギリスを訪問したムスリム文人官僚が現れます。インド東部シーア派ムスリム君主が支配するラクナウ生まれのミールザー・アブー・ターレブ・ハーンという人物です。2年半イギリスで暮らした彼は、家系がイラン出身だったこともあり「ペルシア王子」と呼ばれてロンドン社交界で華々しく活躍し、イギリス国王や王女はじめ有力貴族や政治家とも交遊を温めます。その一方で、イギリス社会の長所短所を冷徹に見つめる観察眼の持ち主でもありました。帰国直後に、ペルシア語で記した『求道者の旅路』なる大部な旅行記には、イギリス社会の仕組みや政治制度の克明な記述が散りばめられています。機械制工場を視察に行ったときに、10の工程に分業したシステムが「一瞬のうちに一万本の針を製造する」、それゆえに10本の針が銅貨半枚ぐらいの安価で売れるのだと、産業革命をくぐりつつあったイギリス経済の強みを言い当てています。また経済の繁栄の根底には自由の保障があり、それは支配者や大臣の失政を言論や諷刺画で批判する自由にさえ及んでいることに驚きを隠しません。しかし手放しの西洋礼賛に満足していたわけではありません。イギリスが階級社会であり、その格差の大きさはインドの二倍だとも指摘しています。ペルシア語で語るアブー・ターレブは、ムスリムたちに自らの宗教や文化にプライドをもつように訴えます。ムスリムが手で食事をする慣習を嘲笑した者に対して、それでパンを練っている「あなた方のパン屋の徒弟の足より不潔ということはないだろう」と痛烈に皮肉で言い返しています。このように一八世紀後半から一九世紀初頭にかけてのムスリム知識人たちは西洋近代を眼前にして、虚心であると同時に、自文化への強い矜持を合わせもっていたことも見逃せません。ミールザー・アブー・ターレブ・ハーン肖像銅版画黒田卓(くろだたかし)■1955年生まれ■現職:東北大学大学院国際文化研究科アジア・アフリカ研究講座教授■専門:イスラーム圏研究、イラン近現代史■関連HP:http://www.intcul.tohoku.ac.jp/research/staff/89.htmlTohoku University ANNUAL REVIEW 2015page: 18Tohoku University ANNUAL REVIEW 2015page: 19